読脳とキネシオロジー・Oリングテストの違い
「読脳法って、キネシオロジーやOリングテストと似てますよね?」
こんなふうに訊かれることがあります。
もっとも、伊東聖鎬はアプライドキネシオロジーを紹介する本(筋肉反射応用治療学,1893年)を日本で最初に出版した人物であり、読脳法の前身である筋肉反射検査は、アプライドキネシオロジーがヒントとなって開発されました。
読脳法とキネシオロジー、Oリングテストは、「人の体の反応を読む検査法」という点で、共通しています。
しかし、その中身を知れば、両者はその主旨が全く異なる検査法であることが分かると思います。
キネシオロジー・Oリングテストは行う側の意図で結果をコントロールできてしまう
まず、キネシオロジーやオーリングテストで検査に使用するセンサーですが、それは「筋力の強弱の変化」を見ます。
筋力について、皆さんが知っておかなくてはいけないのは、筋力の強弱の変化を見る検査法は、テストを行う側の意志でいかようにもコントロールできてしまうという重大なデメリットがあるということです。
検査を受ける側は、物を持つと弱かった筋力が強くなった時、「筋力が強く変化したから、これはあなたに合っています!」と説明を受けるわけですが、その結果がテストを行う人の意図でコントロールされているとしたら、どうでしょう?!
その検査は信用に値するでしょうか?
アプライドキネシオロジーの生みの親、ジョージ・グッドハートD.C.は、キネシオロジーが決してそんなふうに利用されるために開発したのではないでしょう。
しかし、現在、日本で使用されているキネシオロジーやオーリングテストは、
治療院や歯科医院における治療費稼ぎだったり、商品を売る目的に利用され、本来のあるべき目的とは違うものとなってしまっています。
この重大なデメリットを取り除くために、読脳法では「筋力の変化」は使いません。
読脳は、純粋な自分の脳の反応を知ることが目的ですから、読脳法では検査する側の意図が反映しない「微細なセンサーを体に開発し、センサーの変化を読む」のです。
古代、人類は脳で天の情報を読んでいた
脳の情報を読み出すという行為は、現代に開発されたものではなく、古くから人類が行なってきたことです。
例えば、皆さんも聞いたことがあるでしょう、世界中の“シャーマン”が行っていたことなどがそうです。
彼らは普段、人が使わない脳の回路をフルに駆使し、空間の音を聴き、脳の奥の情報を読み、得た情報を基に、村の聖職者、リーダー、医師、神官、霊媒師、心理学者、詩人などの役目を果たしてきました。
シャーマンは、共同体や個人にとって必要な情報を読み、コミュニケーションを仲介し、仲間のため、共同体のために、使命を果たしてきたのです。
共同体の人々は、時に、迷い、悩み、混乱し、苦悩し、行き詰まり、SOSを求めることがありました。
そんな時、シャーマンは、その人の脳の情報を読み、その人の脳にある本来の生き方を示し、それができるよう、指導を行ったのです。
日本でも、寺や神社の中にその形式が残っています。
神主は、手にいろいろな道具を持っています。僧侶もまた、手にいろいろな道具を持ち、筋肉の反応を感知し、イエスorノーで答えを得ているのです。
そんな人類にもともと備わっている能力、幸せに生きるための知恵を生かし、行うのが読脳法です。
特殊なものだと構える必要は、全くないのです。
読脳法をもっと生活の中に取り入れて、心豊かに生きてほしいと思います。
必要なのは、自分は人の役にどうしたら立てるのか?という純粋な思い
脳の情報を読み出すのに、必要な心構えはどんなことでしょう?
それは、自分も人も、皆、発生の根源は同じということを理解することです。
人の発生には、意味も理由も、必要もありました。
誰もが、意味があって、理由があって、必要があって、生まれてきたのです。
それなのに、悩み、迷い、混乱し、苦しんでいるとしたら、それは本来の意味・理由・必要から外れているということです。
悩みや苦しみが生じるのも、幸せに生きるのも、自然の理の結果ということです。
悩みは、本来の自分を取り戻すようにという脳からのサイン
悩みやいろいろな問題に振り回されるのは、原点に立ち返り、本来の生き方を取り戻すようにという脳からのサインです。
だから、悩みや問題は悪いものではなく、本来の自分を回復するためのきっかけでしかないのです。
全ての発生の源、『元』。
『元』からの情報が、脳に届いています。
脳の情報を読み出すとは、そんな脳に届いている『元』の情報を読み出すことを言います。
『元』を見失い、SOSのサインを発している人には、脳に届いている『元』の情報に気づかせてあげられれば、自ずと本人の力で軌道修正できるのです。
―人の役に立つのであれば、その協力をすることです。
自分勝手に判断して、協力しているという気になることでもなく、
お節介をするのでもなく、大切なことは、『本質』を分かっているということです。
人として生まれたなら、本質が分かる人間になって、人の役に立ち、生きられるようになりたいものですね。