読脳法が生まれた背景

読脳法が生まれた背景

『CW Happiness Philosophy 読脳』は、私、伊東聖鎬がたくさんの人と出会ってきた中で開発した技術であり、考え方です。

私は、幼稚園、小学校の時から、友人、仲間を大事にする方でした。

いつも仲間とつるみ、兄弟のように付き合っていた友人は、何人もいました。

そんな私は、小学六年生の時、転校することになりました。京都市内の南から北へ、金閣寺の真ぐ傍に引っ越しました。

たまたまそのタイミングで、叔父が韓国から密入国したことが、数年経って摘発され、新聞に載ったのです。

私は京都生まれの在日二世です。

それをきっかけに「いじめ」が始まりました。

私は、小学四年生から柔道をやっていたこともあり、腕力では負けませんでしたが、クラスの男子の半分ぐらいが、そのいじめに加担してきました。

そんなことを前小学校の友人に話すと、

「よーし!伊東をいじめる奴らは許さない。なんとか懲らしめよう」

ということになり、頭を巡らせた結果、野球大会をやろうということになりました。

前校では野球チームに所属していましたから、そんな仲間たちが中心になりました。

当日は日曜日で、約20名が京都の南から北から、遠征してきました。

試合そのものは普通に行われました。地元校の応援団も多くいました。

そんな中で、前校のチームに入っていた私のチームが勝ちました。

試合が終わった後、前校の友人達が「何で伊東君をいじめるんだ!」と騒ぎ始め、いじめている人間達に暴言を吐きました。

そんなことを30分以上やり、その後、私の家に集まり、「エイエイオー!」をやりました。

前校のみんなは、意気揚々と引き上げていきました。事情を知らない家族も、同じように盛り上がっていました。

その翌日、登校すると「先生が呼んでるよ」と伝えられました。内心、心配していました。

やっぱり来たか…。

「伊東君、昨日はずいぶん校庭で暴れたんだって?なんでそんなことするの?みんなに謝りなさい!」

50歳を超えていると思われる女の担任から、こっぴどく叱られました。

このことをきっかけに、いじめは火に油を注いだように、エスカレートしていきました。

国籍差別によるいじめ

私は団塊世代。75名のクラスは、後ろまで全く隙間がないくらいぎゅうぎゅう詰めで、息が詰まりそうなほどでした。

そんなクラスの中で、私を目がけてあちこちから不意に消しゴムや鉛筆などが飛んでくるようになっていきました。

女担任も加担し、それはさらに酷くなっていきました。

小学6年生の時、ある体育の時間、私は生まれつきの痔瘻で、その日は朝から酷くなり、校庭でのサッカーの授業には出られそうもないので、

「今日は体調が悪いので実技は見学させてください」と職員室へ行って、担任に頼み、許可をもらいました。

全員がトレーニングパンツに着替え、校庭に整列していました。

私は皆とは離れ、私服のまま見学席にいました。

すると、「伊東君、何してるの!?皆と同じように並びなさい!」と言われました。

「え?!」今日は見学させてくださいとお願いして、許可をもらっているのに。

「早く並びなさい!」

私が皆の列に入るまでは、授業は始まらない。そんな雰囲気になっていました。

「今日は見学のつもりだったので、トレパンは持っていません」と言うと、

「ズボンを脱いでパンツになって、早く並びなさい!」と言われました。

「えっ?!そんな!本当に脱ぐの?」と思いながらも、毅然とした態度を取る担任には、口ごたえできませんでした。

すでに痔は、登校の途中で破裂し、下着は膿と出血で、ベトベトになり、外から見ても、パンツの後ろは血で染まっているはずです。

しぶしぶズボンを脱ぎ、皆の後ろに並びました。

痔瘻でお尻が腫れ上がり、普通に歩くこともできない状態でしたが、なんとかして後ろに並びました。

すぐに2チームに分かれ、ゲームが始まりました。

当然に、走ることも、動くこともできない私でした。

そんな私をめがけて、ボールを蹴ってくるのです。

ほとんど動けない状態です。

私の足元にボールが止まった瞬間、2~3人が私をめがけて、突っ込んできました。

私は倒れました。

その瞬間、さらに4~5人が上から重なってきました。

「ボキッ!」右足首が鳴りました。

やったな…、と思いました。骨折です。

上から誰もいなくなるまで、私は倒れ込んでいました。

そして、誰もいなくなると、足を引きずり、ようやく見学席まで戻ってきました。

「どうしたの!」

「足を怪我しました」

「じゃ、休んでなさい!」

そっけない女担任の言葉でした。

見る見るうちに、右足首は腫れ上がっていきました。

授業が終わると、皆が痔瘻の出血で染まったパンツのことを、「伊東は生理中だ!」と嘲りました。

授業中は、痛いのを一生懸命こらえていましたが、下校は一人では歩けないので、友人に肩を借りて帰りました。

家に帰っても、親、姉妹には、そのことは一切伝えませんでした。

2週間が過ぎ、日増しにおかしな歩き方をする私を見て、母親が「どうしたの?」と聞いてきました。

それでようやく、ほねつぎへ行きました。

「ああ、これは手遅れですね。もっと早く来なければ」

77歳の今も、右足、右脚は小学6年生のまま。大きくはなりませんでした。

私はもともと、運動神経は抜群でしたが、いろいろなスポーツにも影響が出ました。

痔瘻も未だにそのままで、たまたま今日も、左右両側にある痔瘻は腫れ上がっています。

なぜ人が人を差別するのか

それ以後も、いじめは続きました。

そんないじめを経験した私は、「弱者や被差別者側に、自分が立たされている」と感じるようになりました。

それまで自分が、いじめられる側の人間という意識は持っていませんでした。小学6年生でした。

中学は京都韓国中学へ通いました。

初登校の日、1年生から3年生全員が同胞なのです。想像も、考えることもできない情景でした。

「これが同じ国の人間達たちなんだ」。感激と幸せ感でいっぱいになったのを覚えています。

どこかで救われた思いを持ったのです。

そんな韓国中学での3年間は、私の人生にとって、なくてはならないものとなりました。

戦後、両親が韓国から日本へやってきて、私たち四人兄弟が生まれました。

私達はそれまで、ほとんど何の違和感もなく育っていました。

小学6年生の時のいじめは、そんな少年に、いろいろなことを考えさせるきっかけを作ってくれました。

それは今では、大変ありがたい経験だったと思っています。

高校を卒業する頃には、現実をこの目で見、体で体験しようと全国放浪の旅に出ようと考えていました。

ケネディ大統領が暗殺された翌日、京都を出、ひとり上京しました。

高校1年生の秋でした。

100の地域で100の仕事をし、人を、社会を知る

全国放浪の旅は、高校を卒業してから、25歳まで続きました。

「100の地域で100の仕事をやる」と決め、いろいろな地域でいろんな仕事を体験しました。

いろいろな人と出会い、たくさんの人とコミュニケーションを行いました。

それによって「日本という国」、「日本人という人間」、さらに「日本に暮らす外国人」とは?を考えることが出来ました。

そんな全国放浪の最中、最愛の姉の子が2歳になった時、知的障がいと診断されました。

彼女の両親(姉・義兄)は、我が子が知的障がいであることをなかなか認めようとせず、原因を相手の家系に押し付けあっていました。

そんな二人を見て、「彼女に対して、自分がやるしかない!」と決断し、東京に戻り、それをきっかけに医療の道に入りました。

東洋医学-鍼灸学校から始まり、それ以降、これは!と思う治療技術(自然医学、マッサージ、カイロプラクティック等)を次々と学びました。

そんな中で、公害病や難病の患者さんと向かい合いました。

現代医学では良くならないという人ばかりでした。

そんな人に対して、自分は何ができるのかと問いかける日々でした。

姪を良くしたいの一心でしたから、開業することは考えていませんでした。

それでも、それまでに関わった患者さんやその紹介で、「個人的に診てほしい」という人も増えていき、熱心に研究しました。

私は治療費をもらうために、治療をしていたのではありませんでした。

どうしても、良くするための手がかりを得たかったのです。

そうしてやってきたことが、やがて読脳の開発へと繋がるわけなのですが、

私が行ったのは、治療というより、「マインドトーキング」と名したコミュニケーションが中心でした。

なんで私のところへ来たのか?どうして良くなりたいのか?なんでそうなったのか?どうなりたいのか?

そんなことを話し、約2時間かけて向かい合っていました。

そして、「私は何ができるのか」を、考え続けました。

病気・症状の原因を知った

そんな人たち、何百人と向かい合ってきました。

そして、どこへ行っても良くならなかったという人が、良くなっていくのを目の当たりにし、

なんで、どうして? 話しを聴くだけで、良くなって行くのか?!

その原理というか、人の不思議が知りたくて、私は自問自答を繰り返していました。

そして分かったことは、人は孤独で、未来が見えないということでした。

つまり人は、脳に未来が持てなければ、病気から開放される理由がないということを知りました。

元気になる理由がなければ、体は機能しなくなっていくのです。

難治な病気や症状に向かっていくのは、自然の理ということです。

私は思いました。

「本当に人の役に立つために、もっと人を知らなければ!」 

それで、私が始めたのは、人を知るというセミナーでした。

それからは、老若男女、いろいろな人を対象にしたコミュニケーションの場を作り、人の話を聴くことを熱心に行っていったのです。

それは、私が中学時代から20代の全国放浪時代まで、ずっと行なってきたことと同じことをやることでした。

コミュニケーションの重要性

人と人は繋がっています。

30代の人の行き詰まりは、10代に何を考え、生きてきたか、から繋がっていました。

50代の人も同様でした。

20代の人の悩みは、40代の行き詰まりに繋がっているのです。

誰もが、どうしても社会の影響を受けます。

生まれてきた社会によって、それに抗わずに流されていては、生き方が皆同じものに方向づけられてしまうのです。

つまり、自分が得たい答えは、すでに社会に生きている人が持っているのです。

少し年上の人たちや、また年下の人たち、この社会に生きているたくさんの人の話しを興味・関心を持って聴けば、自分が知りたいことのヒントは、得られるのです。

自分は愛されている存在であることを知るためにコミュニケーションする

ただし、人が言っていることの深さや幅を、どこまで汲み取ることができるかが重要です。

表面的に見聞きしているだけでは、繋がってきません。

多くの人は、物事の本質を見抜く力を磨いて来ていません。

日頃から、人と、周囲と、自分自身と、積極的に深いコミュニケーションを行うことが大切です。

私は、「7つのコミュニケーション」を言っています。

その中の、

自分とのコミュニケーション、

物とのコミュニケーション、

人とのコミュニケーションをできるようになれば、

それは次第に、自分の脳とのコミュニケーション、

人の脳とのコミュニケーションへ発展していきます。

脳と脳との深いコミュニケーションが大切なのです。

生きていく上で、コミュニケーション能力は重要です。

それが不得手な人が、現代医学・現代医療で良くならない難治な病気・症状、不定愁訴を抱え、さらに社会不適応にもなっていくのです。

私は、全国各地で約50年間、医療者を対象にしたセミナーを行ってきました。

そして、そこに参加していた医師、歯科医師、治療家たちに、患者さんに呼びかけていただき、「赤ちゃん、幼児とお母さん」「中高校生とのコミュニケーション」「夫婦」「家族」「恋愛、結婚、セックス」「女の幸せ」等々、様々な対象、テーマのコミュニケーションの場を作ってきました。

そんなコミュニケーションの場を、全国各地で約45年間行い、それらの経験を通して、私は「自分が求めている答えは、自分の脳の中にある」ということを確信しました。

自分以外の人に求めても、本当に必要としている答えは得られません。

小学生も、青年、中年、老年者も、自分の求めている答えは、自分の脳の中にあるのです。

その答えを読み出し、さらに探究していくことで得られるのです。

私は、そんな脳の情報を何とか読み出す必要があると考え、『読脳法』を研究、開発したのです。

読脳開発者 伊東聖鎬 PRESENTS
『100%納得・満足して生きるために
脳の奥にある情報を読み出すまなびスクール』

どんな逆境にあろうと、自分らしく前を向いて歩いていくことができるように、本当の自分の情報を脳から読み出せるようになるための学びを行うフリースクールです。