高校時代
さらに劣等感を高めたのは、高校受験でした。中学1年生の頃には、文学少年になっていました。ゲーテやルソー、ニーチェ、特にヘルマン・ヘッセやサガンを愛読していました。結局は、ヘッセの影響を強く受けたように思います。
そんな中で、高校進学することの意味は掴めませんでした。中学3年生になった途端、学年中が受験一色になりました。それに対して、私は大きく反発したのです。この感受性の高い時期に、受験勉強に時間が取られることに対する反発でした。
私は1年生の時から、友人と議論するのが好きで、時間があれば議論をしていました。姉は二つ違いで京都女子大学附属高校に進学しました。中学も同校で、中学の時から宗教部に入り、熱心に頑張っていました。そんな姉とも毎日のように議論をしていました。
さらに2年生になった時、クラス替えがあり、3年前に韓国から密航して日本に渡ってきたという尹さんと同じクラスになりました。彼の叔父は、京都で韓国人としては一番の実業家であり、金持ちでした。
京都で一番大きな8階建ての焼肉店やパチンコ店を10店以上経営し、地方にも10以上の店を経営し、それ以外の事業にも精力的に取り組んでいる人でした。その叔父さんを頼って、尹さんは日本に渡ってきたのです。
彼は密航したことがバレるのを恐れ、金沢にも叔父さんが経営する店が数店舗あったので、高校は金沢の高校に進学しました。しかし、高校2年生の時に身元がばれ、逮捕されました。そして、名古屋の出入国管理事務所から長崎の大村収容所に送られたのです。
私は彼と個人的な付き合いをしていたので、彼の義姉からそのことを聞き、すぐに中学時代の同級生に連絡しました。そしてそれぞれがそれぞれのネットワークで、8月20日長崎行きの列車が京都駅11時30分に到着することを伝えました。当日11時頃には、一番線に懐かしい顔がいっぱいありました。
私たち団塊世代の時は、学校始まって以来の2クラスあったのです。それ以降も、2クラスあったことはありません。総勢十数名が一番線に集まりました。
列車が到着すると、私は一目散に彼を探しました。前に二人、隣に一人の刑事が座っていました。彼は高校3年生(2年遅れではありますが)です。厳重な警備の護送でした。
彼を見つけると、彼は驚いた顔でこちらを見ていました。「皆、来てるよ!」彼はまたびっくりして窓の外を見ました。なんと40人以上の同級生がずらりと並んでいたのです。
そして私は皆に、「愛国歌」と「愛校歌」を歌おうと呼びかけ、すぐに歌い出しました。彼も歌っていました。3人の刑事も、伏し目がちに皆を見ていました。
ちょうど歌い終わった時、ベルが鳴り、列車は動き出しました。「元気で!手紙を送って欲しい!」「分かった!」走り出した列車を追いながら、言葉を交わしました。ホームの一番端まで数人がついて走りました。
彼は同級生全員の人気者でした。クラスの全員がなんだかんだで叔父さんのパチンコ店や焼肉店にお世話になっているはずでした。他の乗客もホームにいる人も、何があったのだと興味津々の様子でした。私の姉妹も母親も一緒に来ていました。
その1週間後、彼から手紙が来ました。「なんであんなことまでしたのか、びっくりした。驚いた」という内容でした。彼は今、自分がどんな状況にいるのか分からないという様子でした。私は知っていたのです。
その後3ヶ月間の収容所生活をし、韓国へ送還されました。そのことを知った彼からの手紙には、「こういうことになることを、君は知っていたんだね。本当に感謝している。ありがとう」と書いてありました。
私が小学生の時、 いじめに遭ったのは、叔父の韓国からの密航が 6 年後に発覚し、それが新聞で報じられたことが原因でした。彼も叔父と同様、大村収容所に送られ、半年後、軍事政権時の韓国へ強制送還させられたのです。
その後、彼はベトナム戦争に駆り立てられ、2年間、戦地にいました。私の方といえば、高校に進学したのも束の間、「創氏改名」を強制され、それに抵抗し、夏休みが終わってから高校を退学しました。
京都に残っていても、自分の問題は解決できない。そう考え、一人上京することにしたのです。ケネディ大統領が暗殺された実況テレビを見た翌日のことでした。京都駅では、号外が出ました。それは初めての経験でした。
号外を持って、列車に乗りました。両親と別れる時、父親が言いました。
「駄目だったら帰って来いよ」
人生を懸け、命を懸け、一人上京しようとしているのです。「駄目だったら帰って来いよ」では、命も人生も懸けられません。「駄目だったら、この刀を使って死ね」と言って、ナイフでも渡して欲しかった。
私はこの時、「父親とは終わったな」と思いました。決して私は、父親を憎んだり、恨んだりはしていませんでしたが、父親への想いが切れました。そして、それから50年生きていた父とは、そんな関りで終わりました。
京都を出る時の私の荷物は、中学生からやっていたボディビル用のバーベル30キロと、2冊の参考書を入れたダンボールと、左手には10キロのシャフトを持っていました。ただただ、人生修行としての私、16歳の旅立ちでした。
上京してからは、叔父の所有するアパートの一室に居候しながらの二度とやりたくなかった高校受験のための勉強を、冬の間、やることになりました。屈辱以外の何ものでもありませんでした。
あれほど行きたくなかった高校に、結局、4年間通うことになりました。さらにその4年間は、全て違っていました。1年目は京都で全日制。2年目は東京、明治大付属中野高校定時制。3年目は全日制。4年目は再び定時制でした。
感受性が高く、考えることもいろいろある人間でしたから、素直にはいきませんでした。定時制在学中に、東北にバイクの旅に出ました。それがきっかけで、「来年は北海道に渡ろう」と決めていました。
60年前の東北、北海道。特に北海道は、本州の人間にとっては未知の地でした。20歳を前にしての19歳の北海道行き、「30歳までに100の地域で100の仕事をする」と決意し、全国放浪の修行の旅に出たのです。
それから様々な経験をする中で、25歳の時、最愛の姉の子、姪が、病院から知的障害の診断を受けました。「これは自分が何とかしなければ」と考えるようになり、全国放浪修行の旅は一旦お預けにし、いろいろ考えた末、医療の道を目指すことにしました。
高給を目指すわけでもなく、開業を目指すわけでもありませんでした。また、治療家を目指したわけでもなく、ただただ姪に対して、何か役に立ちたいという思いだけでした。
無事、鍼灸学校に入学できました。入学してからは、有名な先生のところで修行しました。いろいろ可能性を探りましたが、姪の障害は病気ではないということが分かり、必要なのは、彼女が生きている間、理解してくれる人の輪を広げることなのだと考えるようになりました。
それをきっかけに、医療者に、彼女のような人の存在を知り、理解してもらうことが必要と考え、医師・歯科医師、さまざまな治療者を対象にセミナーを全国的に開催しました。
その時には、『読脳法』の前身である「筋肉反射検査法」を開発していました。セミナーの内容は画期的なもので、経済を優先する医療者は、最初は飛びついてきましたが、経済一辺倒の現実の中で、「医療は医療を求めている人のためにあるのであって、お金儲けを目的にするのではない」という私の考えは、ほとんど受け入れられませんでした。
それほどに医療関係者は余裕がなく、生活するだけで精一杯の状態だということです。現代医学、現代医療を行っている人のほとんどが、そんな状態です。それが、国が目指している医療なのだということを、骨の髄まで知るのに、セミナーを開催するようになって約45年間の年月が必要でした。
30歳からスタートし、74歳にしてようやく受け入れたのです。
私は10代から全国を放浪し、様々な地域で色々な仕事をし、いろいろな人と関わり、コミュニケーションをしてきました。求めている人、困っている人、悩んでいる人、助けを求めている人が、いっぱいいました。
しかし、そんな人は救われることはありません。そんな人に手を差し伸べる人がいないのです。自治体も国も、そんな人に対しては冷たいのです。また、たとえ救いの手を差し伸べようと思っても、接点が無いのです。
中には、心優しい人もいました。しかし、そんな人が困っている人、救いを求めている人に出会える場があるのかというと無いのです。そんな現実を知りました。
そして、そんな必要性と現実を、様々なセミナーで訴えましたが、ほとんど伝わりませんでした。多分、これは日本だけのことではないと思います。世界の多くの国が、そんな現実にあると思います。
20世紀の、そして第2次世界大戦が終わった後に生まれてきた者にとって、コミュニケーションの大切さ、人を思う心と気持ち、助けを求めている人に何らかの手を差し伸べられる地域社会の建設等は、使命であり、役目だと思います。
